20160501

4月29日(日)記念講演 古文書「武功夜話」に記された信長・秀吉

流山市立博物館友の会37周年記念講演会

  古文書「武功夜話」に記された信長・秀吉

      講師 吉田蒼生雄(たみを)氏

日 時 平成28年4月29日(日)15時~16時30分
会 場 流山市生涯学習センター 4階大会議室

司会   石垣幸子事務局長

講師紹介  大出俊幸会長
 講師紹介:
昭和12年愛知県江南市生まれ。昭和36年東京浅草橋でハンドバック、サイフ小物類の製造会社ラモーダ・ヨシダを設立。現在ラモーダ・ヨシダ取締役会長。著書 吉田蒼生雄全訳「前野家文書武功夜話」(全4巻、別巻1)新人物往来社刊

講師の吉田蒼生雄氏

吉田講師が白板に書かれた、「木曽三川」、「宮」、「桑名」、「前野」、「岩倉」、「清州」、「犬山」、「ナゴヤ」、「小牧」など位置図
講演の後、別室で、「武功夜話」原本のコピーを閲覧、解説いただきました
「武功夜話」は、愛知県江南市前野町で造園業を営む吉田利二さん宅に先祖代々伝わってきた秘蔵の古文書です。昭和34年この地方を襲った伊勢湾台風のため吉田家の土蔵が崩れ落ちてしまったのを機に、吉田家の親戚にあたる吉田蒼生雄さんが12年かけて訳され、ついに380年ぶりに陽の目をみました。
慶長丁未 武功夜話 十月廿一日  吉田講師の許可を得て撮影したものです
(小型本) 武功夜話 巻之壱   吉田講師の許可を得て撮影したものです

これまで、織田信長や豊臣秀吉についての古文書は、「信長公記」「太閤記」「太閤軍記」などがありますが、「武功夜話」には、これらの記録と異なる次のような記述があると言われています。

・秀吉は貧農の出身ではなく村長の子であった。
・秀吉の墨俣一夜城は実際には3日かかった。
 ・信長と婚約した濃姫(「信長公記」によると天文17年(1584)に濃姫は正室となっているが)は、
 父親の斉藤道三が死ぬ前に輿入れをしてきた。
 ・信長の室はその名を「吉乃」といい、濃姫が輿入れした時には既に嫡男信忠を懐妊していた。
 ・信長は桶狭間の奇襲作戦を小折生駒屋敷で立てた。
 ・秀吉は小折生駒屋敷で吉乃の口添えで信長に仕官できた。
 ・蜂須賀小六と前野将右衛門とは義兄弟であった。

など史実を書き換えるエピソードの多くが体験記として、また関係者の言葉として記されており、信
長、秀吉のほとんどすべての合戦について生々しく触れられています。信長や秀吉らの若い時代の生々しい意欲に満ちた、野性的な行動が述べられたものは「武功夜話」をおいてはほかに見当たりません。

そもそも「武功夜話」は、信長の家臣として、「墨俣一夜城」などの多くの手柄を立てた豊臣秀吉の側近・前野将右衛門の一族が前野家の記録として書き残したもので、秀吉が信長に仕えていく過程や信長が尾張を統一するまでの数度の合戦、桶狭間の合戦、岐阜攻め、小牧長久手の合戦など信長・秀吉に関する天下統一への足取りが詳細に書かれています。

「武功夜話」の編者である前野家16代吉田孫四郎は、清須城で不祥事をおこしたため、浪人となり前野村に帰り、武門を捨てて百姓になり庄屋を務めました。また、キリシタンからの改宗のあかしに前野姓から吉田姓に改めました。孫四郎は父の意志を継ぎ、武門が途絶えるのを惜しみ、後世に前野氏の由来や祖先の功績などを残すことを決意。孫四郎は、仕事のかたわら執筆のための資料整理にとりかかり、寛永11年(1634)から永い年月をかけて、遠くは源平の戦いから織豊期までの数々の出来事を克明に「武功夜話」21巻にまとめました。

講演で吉田氏は、「武功夜話」は「国の歴史=勝者の歴史、ではなく、敗者の歴史である」と位置づけされ、「したがって、ここに書かれたものが、史実かどうかはさだかではありません。こういったことがあったのかもしれない、その程度にご理解いただきたい」と話を結ばれました。

                     吉田講師の許可を得て撮影したものです 
       文政戊子 先祖武功夜話拾遺絵本 九月吉日
              南窓庵亀仙 印   前野吉田家 印        

           右端  生駒八右衛門屋敷
              左端  生駒屋敷
                老杉一樹之栄
                 久昌庵殿生家
                       本絵本の文字解読は新保によります
生駒屋敷は、小折城とも言われ、久昌寺も取り込み、東西370m、南北540m、そして屋敷の周囲には堀が張り巡らされた広大な構えでした。尾張を統一し、天下布武をもくろむ信長は、生駒氏の経済力と情報収集力に着目し、生駒氏との関係を深くしていったとされています。


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